2015年12月11日のメモ
昨日ひさしぶりに1年前の2015年12月11日に書いたメモを読んでいました。
去年の冬、私は自分の人生について漠然とした焦燥感に駆られ、あまりの不安からその感情や考えたことをスマホのメモに片っ端から書いていたんです。
とりとめのない書き方もぐちゃぐちゃなものなんですけど、とにかくこのなんとも言えない気持ちをすべて出していかないと、自分が怯えている状態さえも不安になりそうだったから。
書いた内容は自分のことではあるものの、なんせ私は自分のことを俯瞰するのが苦手で、社会性とか経済能力とか、会社での立ち位置とかそういうのを全然客観的に見られないので、あることをしました。
それは、社内で自分と近い条件の人に自分を投影することです。
同じ30代後半の女性は何人か知りあいがいますが、役職や子どもがいるかいないかで自分の環境とは違いが大きいので、そういう人ではなく、仕事の立場として近い人、そして話したことはあるけど詳しくは知らない女性だったら冷静に見られるんでないかと。
細かいところは置いておいて、一般的に見て、年齢、仕事の立場、年収がこれくらいだとまわりからどう見られてるのか。
相手に自分を投影して、私が私を見る。
社内の廊下ですれ違ったとき、席で仕事をしているとき、談笑しているとき、帰り際であいさつしたとき人にはどう映るんだろう。
その時感じたことをスマホにバーっと書きました。
1年前は必死に生きていなかった
出た結果は一言で言うと“あんまり必死に生きてるように見えない”でした。
結婚はしてるけど子どもがいなくて、外目には特に生活に追われてるとかはない、でも逆に言うと必死さがない。
廊下もペタペタ歩いてる。
趣味で何かにハマっている話も聞いたことがないし、何を楽しみに生きてるんだろう。
収入に余裕があるわけではないから、もし離婚して1人で生きていくことになったらどうするんだろう。将来のこと考えてるのかな…。
(相手の女性は未婚で顔見知り程度ですので、あくまでも私、まるを投影した状態です)
自分のことや親のことで悩みだらけだった
もしかしたら、それは人によっては大きな波もなく、普通に生きていけるだけでも幸せじゃんと思うかもしれません。
でもなんだろう。
楽しそうに見えないんだよなあ。少なくとも私からは。
そして外見は普通でも、内情は実は親の先のことだったり、私自身もこの仕事がいつまでできるかとか、肉体的にもこれからどんどん衰えて老眼とか更年期とかあるのかなーとか心の中は不安が渦巻いてる。
親のことや自分の加齢のことは書かなかったけど、このメモを見るだけでそこまで思い出します。
今の感情は記録に残したほうがいい
そしてそのメモを残し、ドラマ「いつかティファニーで朝食を」を観て年末年始を過ごした私は、ここからついに早起きすることを決心します。
2016年2月29日から早起きをはじめて、なんとか今まで続けてこられました。
そしてメモをつけた去年の12月11日から1年が過ぎました。
今メモを見て思うことは、正直なところ「あーそんな時もあったなあ」という、今はなくなって、それを懐かしむ感情ではありません。
まだそこまで遠くまでは来られていません。
ちょっと読めばそのときの情景、気持ちをリアルに思いだせるし、それは当時の不安が何一つなくなったからではないからでしょう。
でも、この1年の途中からなんとか早起きを毎日してきた。
親の将来の不安についても、エンディングノートやお墓の話を家族できちんとすることで、現実に向き合うことができた、心の準備が少しできた。
外で朝ごはんをする機会もあったし、海外にまで行って食べた。
そういう現実、事実がすべて私の自信になり、それが私を少し前へ押し出してくれました。
もしこのまま今の生活ができたら、来年の12月11日はもっと前へ進んで、そのときこそ他の人に自分を投影したときの感情がいい意味で思い出せなくなるかもしれません。
記録を残すって大事なんですね。
どんな感情であっても、大したことない何気ない1日の一コマであっても、あとから見ると自分がどう変わったかが如実にわかります。
今自分の人生に納得いかない、悩みがある人は特にその気持ちをどこかに残してみてはどうでしょうか。
その感情をバネに何かにチャレンジして、1年後、半年後でもいい、残した記録を見たら今とは絶対違う自分になってますよ。