教養とは何か
知の巨人と言われる人にとって、「本物の教養」とはどんなものか、どういうときに生きるかを私の知らない見方があるんかなと思って読みました。
出口治明 人生を面白くする本物の教養
まあ正直言って、60代、70代の世代の人でしかも一流エリート畑を歩んできた人の言う”教養”だろうな、とはやっぱり思いましたけど。
だいたい欧米の人と文学、美術、音楽、建築、歴史について語れることが大事ということでした。
世界をまたぐエリートがみんながみんなこう言うってことはそうなんだろうけど、じゃあ私みたいなそういう世界と縁のない人間はそんな知識は必要ないのか?
…その答えはまだ出てません。
出ないままアラフォー。
もうそんなエスプリ必要ないんじゃないか…と考えつつ、でも最近になって、こういうエリート100%発言も、1周して「そうかもな」とも思えるようになってきました。
文学、美術、音楽、建築、歴史は一生ついてまわる
なぜかって、それはいつまでも「文学、美術、音楽、建築、歴史の話は人生の大事なところでついてまわるから」です。
普段は必要ない。
職場にいるときや友だちと話している時、
居酒屋にいるときや電車に乗ってるときは必要ありません。
…でもね、それでも長く生きてると、たまーに「あ、この人と話してると楽しいなあ」っていう瞬間があって、そういう人と「この人と共通の話題を見つけて盛り上がりたい」っていうときに、自分の手札がないとその接点が見つけにくいんですよ。
それはマンガだったり、プログラミングだったり、ゲームだったり、車だったりするんだけど、しかもこれらの話ぜんぶ私はついていけないんだけど、だったらなおさらこれ以外の話の接点を見つけないと。
別に美術も歴史も高尚なものではほんとはなくて、歴史上の好きな人物のどこがいいかを聞いたらその人の細かいところが理解できるようになるし。
あと単純に「知りたい欲」というのも出てきました。
これはまさに「歳とったな、っていうか多くの年寄りと同じ道きてるな」って感じなんですけど、たしかにそれが出てきました。
なんでしょう、死ぬまでに「わからないまま来てしまったことを放っておいてこのまま死んでいいんだろうか」みたいな(やっぱり年寄り)。
まとめ
20代半ばから10年間はずーっとビジネス本はハウツー本を読むのが楽しくて、そういうスキルを知ることが嬉しかったけど、最近はちょっとこの年寄りじみた方向に傾いています。
そして出口さんのこの本を読んで、2015年になっても、ポケトークとか出てるこの時代でもまだ英語必要って言うんだなーって思って、私は自動翻訳機の登場を待つフリして英語をさぼってきたけど、まだまだ自分で話すことも必要とされてるってことですね。
ということで、夏からサボりがちだった英語、この本を読んでまたやろうかなと思い直しました。
(詳細は昨日のブログで)
あ、そうそう、本の最後のほうは創業のライフネット生命の話だったので、私は飛ばしました(スミマセン)。
あと、彼が読書と同じくらい大事にしてる旅、人(との出会い)ですが、私は旅はまあまあたくさんしてきたのと、あと人は、性格的にあんまりたくさんの人と会う気がないので…やっぱり読書に比重を置くかなあ。
この辺は人それぞれですかね。